「幸せ?」
   足元の夕闇を見つめて、声が震えないように気をつけて口にした言葉は、満足そうな笑顔を浮かべた先生にあっさりと受け止められる。
  「とっても」
   僕は、全然だ。
  「式は6月に挙げるつもり。教会でやりたいのよね〜」
   誰もそんなこと聞いてないのに、先生は得意げに言った。
  「純君も、呼ぶからね」
   そっと、両手を暖かい手で包まれる。何度も握り締めたその左手には、知らない輝きがある。
   僕の手の甲をゆっくりと撫でて、イスから立ち上がった。
  「帰ろっか。もう、遅いし」
   僕達がここでこうしていられるのが最後になるというのに。あまりにも…じゃないか?
   非難めいた目で先生を見たが、テキストを小脇に抱えて僕を見ている。
  「鍵閉めて、閉じ込めちゃうわよ」
   ため息をついてから、机の横にかけていたカバンをとる。
   先生は、いつもそうだ。

   数メートル先を行く先生の背中を見て、僕の頭にはここ何ヶ月の思い出が蘇ってくる。
   一緒に買い物に行ったことや、公園で鳥を観察したこと。何のこともないただの授業中に、目が合って笑ってくれたこと。
  「全部、遊びだったの?」
   立ち止まって振り向いた先生の顔は、逆光で見えない。
  「そう思ってくれても、構わないわ」
  「僕は、先生の何?」
   少し間が空いた。
  「手のかかる生徒」
   確かに。苦笑したら、つられて先生も笑った。
   どこまでも続く廊下に笑い声が響いたが、それもすぐに収まってどんよりとした空気が立ち込める。
   もう追い払えない程に重くなった空気が、冷たく心に染み入る。
  「先生は、幸せ?」
  「幸せよ」
  「僕は、全然だよ」
   さっき思ったことを言う。
  「どうして?」
  「15歳だから」
  「若いって、素晴らしいわよ?」
   先生だって十分若いクセに。
  「勉強できないから」
  「もっと落ち着いてやれば平気よ」
   さっすが先生。ごもっともな御意見です。
  「身長が154だから」
  「これから成長するわよ」
   牛乳飲んでも、全然なのに?
  「先生が、結婚するから」
   相槌を打っていた先生が、今度は黙る。
   人が聞きたくないことは言うクセに、聞きたい時には何も言わない。


   僕がまだ、15歳だからだろうか。
   だから、選んでもらえないのだろうか。
   愛に年齢は関係ないって、誰が言ったんだよ。
   痛いぐらいに、大有りじゃないか。
   恨みがましく、過去にそう言った人を罵る。


   もう会えなくなる。
   今日が最後だと、クラスの子が言ってた。
   『寿退社』っていうヤツだ。
   会いたくなって、連絡してもキット先生は会ってくれない。
   ナゼだか感じる。
   キット、僕にはもう会ってくれないってことを。


  「先生。僕、忘れないから」
   握り締めていた拳の力を、ゆっくりと抜く。
  「絶対に、忘れない。先生が後悔するぐらい、イイ男になって、出直してくる」
   先生は、少し身を屈めて目線を僕と同じにして困ったように笑った。
  「先生、スンゴイおばさんになってるかもよ?」
  「大丈夫」
   本当は大丈夫じゃないかもしれないけど。
  「もしかしたら純君の事、忘れちゃってるかも」
  「すぐに、思いださせるっ」
   本当に忘れられたら、どうしよう。
  「じゃあ、待ってる」
  「え?」
   まさか、返事がくるなんて思ってなくて。
   左手の端っこの指には、縁日でプレゼントした安物のガラスではないもの、が、ある。
   その左手で頭を撫で、先生が笑ってくれた。
  「純君がイイ男になって、会いに来てくれるのを待ってる」
   零れた涙を慌てて拭うと笑われた。
  「泣き虫」
   一歩下がって、背筋を伸ばす。
   会えないだなんて、もう思わなくって済む。
  「待ってて」
   叫ぶように言ってそのまま、教科書や文具が詰まっているカバンの紐を握り締めて走り出す。
   拭っても溢れてくる涙が、頬を伝って後ろに流れていく。


   うなずいてくれた。
   だから、振り返らない。

   答えをちゃんとくれた。
   だから、振り返れない。



   すぐには5カラットのダイヤの指輪をプレゼントできないかもしない。
   でも。
   待っててくれるなら、大丈夫だ。




   先生。
   僕は、幸せだよ。











































   塾の先生(♀)と、その生徒(♂)の恋物語。
   えーと。説明不足すぎる内容でスイマセン。
   機会があれば、二人の以前の話を書きたいな〜と思ったり、思わなかったり。


   ここまで読んで下さって、ありがとうございます。


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